50年のあゆみ
産業関係学科 創立から30年(1966年~1996年)
学科代表 石田 光男
創立50年の歴史の前半を振り返るのが、この項の課題である。紙幅の制約もあり、主として、(1)創立に至る経緯、(2)大学紛争と60年代末の状況、(3)80年代半ばの研究・教育の課題認識について振り返り、私の責めを塞ぎたい。 (以下、敬称略)
1. 産業関係学専攻創立に至る経緯
1941年、戦前からあった文学部神学科社会事業専攻が、文学部文化学科厚生学専攻に改組された。中條毅は、「厚生学専攻は、戦時労働力政策…を中心とした労働力調達・培養が中心であり」、これにより、キリスト教主義の同志社への「時の陸軍」からの批判をかわしたと振り返っている(『産業関係学専攻20周年記念誌』以下、『20周年誌』)。
戦後、新制大学制発足とともに、厚生学専攻を核として、社会福祉学、社会学、新聞学の3専攻からなる文学部社会学科が生まれた。
産業関係学専攻の沿革とのかかわりで重要な点は、社会福祉学専攻の中に、社会福祉プロパーと労働(産業)福祉の二つのコース(的なもの)があったことである。産業関係学専攻発足直前には、大学院の社会福祉学専攻に、労働(産業)福祉の教授として中條毅、伊藤規矩治、角田豊が加わっていた。
中條はかねて、Industrial Relations(以下、IR)の研究教育領域を設立する希望を抱いていた。1960年から61年にかけて、ロックフェラー財団の援助で米国に留学し、イリノイ大学を拠点にシカゴ、ミシガン、UCバークレー、ミネソタ、コーネル等各大学のIRの教育研究の実情を調べた。
しかし、おりしも、文学部三分割構想が台頭し、田辺移転+「英米学部」+「社会学部」という複雑な課題解決の問題となり、議論は紛糾し、結果的に、文学部社会学科に産業関係学専攻を新設することに落ち着いた。
戦時労働力政策→労働(産業)福祉→IRという、労働・雇用の研究と教育への熱情が、時代の風雪を超えて、貫かれていることに感銘を禁じえない。
2. 専攻創立と大学紛争:時代の雰囲気
専攻創立時のスタッフは、中條毅、伊藤規矩治(社会学専攻から移籍)、角田豊(採用:1964年)、辻村一郎(新聞学専攻から移籍:1965年)、三塚武男(採用:1966年)の5名であった。1971年に松村彰が加わった。私は1978年に助手として採用していただいたが、当時の印象は、専攻会議が頻繁に開かれ、よく議論したことである。伊藤は角田と「イデオロギーに文句をつけないことにしようと約束した」(『20周年誌』p.14.)と記している。60年代から70年代にかけて、大学はイデオロギーの風圧がとりわけ強かった。労使関係の世界もそうであった。専攻の運営も各自のイデオロギーを尊重しつつ心を一つにすることが不可欠であった。
学生はどうであったか。2期から4期の5名のOB・OGと当時を振り返っていただいた(座談会:2016年5月21日)。
「僕らの2年、3年は、封鎖でほとんど授業はなかった。69年、70年。試験はすべてレポート。はがきで出せと言う先生もあった。」(3期生)
「授業がなかったので、学生会館の部屋を借りて産関内部の研究会をよくやった。」(全員)
「日本経済研究会(大内力の『日本経済論』を読む)、社会政策、労務管理、労働法、マルクス・エンゲルスの研究会等を、それぞれ4回生が下級生を指導して勉強した。」(全員)
「私たちは高校3年でベトナム反戦運動に触れ、何のために大学に行くのかを考えていた世代です。労働関係にも関心があった。シモーヌ・ヴェイユの『抑圧と自由』が好きだったので。」(4期生)
「いい時代だったと思います。勉強することと生きていくこととが同じ地平にあった。学んだことが社会への広がりを持つということが言えた時代だったから。」(4期生)
時代は移ろう。実際、彼らも、「自主的な研究会も最初の4、5期までが結構盛んで、後が続かないようになった」と振り返る。学ぶということの意義が生き方の問題として掴まえられかけていた学問の基盤が、大学の「正常化」とともに希薄化するという逆説は、どのように読み解かれるべきなのか。
3. 80年代半ばの研究と教育の課題認識
1980年代の半ば、研究と教育の課題はどのように認識されていたのだろうか。
『20周年誌』に当時の専攻スタッフの座談会(1984年9月11日)が収録されている。以下の3点が課題として認識されている。
(1)大学院の設置問題。当時の同志社大学全体で大学院が設置されていない教学組織は、産業関係学専攻だけであった。この問題解決は21世紀の初頭になされた(本誌『座談会』の項参照のこと)。
(2)産業関係学の将来。日本経済は、1970年代の二つのオイルショックを成功裏に克服し、成功の原因のひとつとして、労使関係の安定や雇用慣行の柔軟な調整力が世界的に注目される時代を迎えた。このような順調な事態に対して、労使紛争解決のプラクティスとしての側面を持つIRという学問の必要性をどのように考えたらよいのかという問題である。
(3)教育について。二つの問題が意識されていた。第一は、教育のステップ・手順が明示されていないことが、学生を戸惑わせることになっているのではないかという問題である。第二は、第一と関連しているが、学生の積極的な向学心を引き出す理念と方法は何かという問題である。
(2)、(3)のいずれも、IRという学問のディシプリンとしての性格に起因する問題である。この課題は、90年代以降、今日に至るまで、産業関係学科の中心的課題であり続けている。
今日にあっても、女性・高齢者の活用、正規非正規雇用の処遇格差、グローバル化の進展と雇用、急速な情報通信革命と働き方の変化等々の、課題の具体性があるかたわら、それを学問体系に構築する理論形成の困難が横たわっている。課題の具体性と理論形成の困難が、IRほど顕著な社会科学分野も稀であろう。
この緊張をこそIRの研究と教育の糧であるとみなし、事実に対して真摯であり、方法について自由闊達であること、そういう学風の大切さを前史は伝えているように思う。