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記念座談会

1966年に創立され、50周年を迎えた産業関係学科。
学科の歩み、現在の課題、そして将来の展望を、SANKANで教鞭をとってきた先生方に語っていただいた。

記念座談会

創立から1990年代を振り返って SANKAN前半期の歩み

浦坂 まず産関が創立されてからの前半期、90年代半ばまではどんな時代だったか、石田先生、お話しいただけますでしょうか。

石田 実は66年に産関が発足する前段で文学部の改組転換が問題になっていました。その時期、社会学部構想があって、文学部から社会学科が抜けると英文と文化だけになってしまう。そこで英文は英米学部という学部構想を立てました。いずれにせよ、校地は京田辺です。そうすると学問体系としてどのように学部にくくるかという議論を超えて、校地問題と、そこにまた70年安保に向けて激化した学生運動の影響が加わり、それらの構想が頓挫していきます。その中で唯一、社会学科の中に産業関係学専攻を立てるという考え方だけが残ったということです。

浦坂 随分と息の長い話だったんですね。

石田 当時の学生運動の活動家たちは、産学協同だと非難しました。そんな専攻ができたら、ますます産業界との癒着が進むと。一方で、産業関係学って分かりにくいもんだから、その理念はなんだと問い詰める。

浦坂 そういう批判を受けながらも、なんとか66年に創立できたというのが原点だったのですね。

石田 産関発足当時は学生運動のせいで教室では授業ができなくて、先生方は各自で場所を確保してゼミをするなど随分苦労があったようです。全共闘の学生が教授会に乗り込んできて、試験はしません等々の確約書を個々の先生から取るといった事態もあったようです。そんな中で「産業関係基礎論」が登場します。

浦坂 高校生だった学生が頭を切り替えて自ら学ぶ姿勢を身につけるための科目ですね。今も続いています。

石田 それと大学紛争を未然防止するための方策でもありました。教員は入学当初から学生としっかりコミュニケーションを取るべきだという全学的な方針があって生まれたのが基礎論のようです。

浦坂 今の「ファーストイヤーセミナー」と目指すところは同じだったわけですね。

石田 それから当時は専攻会議、今でいう学科会議が多かったですね。その時代の空気と、労働をめぐる価値観や政策論と密接に関わる産業関係学の特性も相まって、イデオロギーに敏感でした。イデオロギーの違いは互いに認め合おう、その代わりよくよくコミュニケーションを取って進めていこうという趣旨から会議が多くて長かったのです。

浦坂 今の学科会議は授業やカリキュラムなど実務的な話が中心ですけれど。

石田 当時も実務的な話でしたが、その背後にあるものの考え方については今より丁寧に議論していて、そのぶん時間を取られました。また当時は学生が自主的に勉強する学生研究会が盛んで、最盛期は産関だけで10の研究会がありました。

浦坂 あの時代のポジティブな側面ですね。

石田 学生がつくる冊子は今では先生方がケアされていますが、当時はノータッチでした。私が着任した78年当時も学生が研究会の成果を自ら編むのが基本でした。

浦坂 論文集を学生たちが自主的に出すのですね。活動を始めるのは3年次から?

石田 いや、今のサークル活動と同じで新入生歓迎合宿に乗り込んでリクルートするのです。私が赴任した頃から数年間は行っていました。

浦坂 それが80年代あたりから変化していくわけですね。

石田 産業関係学という学問の将来についても議論されていました。80年代の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた絶好調の時代で、その経済発展を支えているのは日本の類い稀な協調主義的労使関係だと。そうやって現実にうまくいっている時に、果たして学問的課題はあるのかという問題提起がされていました。さらに産業関係学に専門性があるとしても教習のマニュアルがないと。理系の学問のように、産業関係学にはステップ・バイ・ステップで学生のディシプリン(訓練)になるような、明確な教育手順がないという議論です。これは答えが出ないまま今日に至っていると私は思います。

文学部改組転換の議論が進み SANKANの次代の方向性が開く

石田教授
浦坂 私が98年に着任して最初の教授会で驚いたのは、社会学科は体育の先生方と一緒になって京田辺に移転するという話が出たことです。 千田 実は私が着任して2年目の94年から、京田辺校地を前提とする「人間科学部」の新学部構想の研究会ができるんです。社会福祉系・産業関係学系・体育学系からなる学部で、そこに心理学系が入ったり入らなかったり。人文・社会系の学部を京田辺に置いて学生で賑やかになるようにという思惑もあったのでしょう。私は当時、書記役で研究会に出席していました。産関は学問的にも独自性を発揮したいという思いがあったし、学内では福祉から出た枝葉の一つと見られることへの反発もあって新たな方向性を探っていました。やがて文学部3学科10専攻の中で、社会学と新聞、社会福祉と産業関係というように二つの専攻を合併させる「二個一」案まで出てきました。これでは産業関係学を旗印にできないと、専攻あげて反対するようになって、結局2000年以前にその話は中断します。それは私が同志社に来て8年目頃で、その時点ですでに20年ぐらい議論されてきているテーマだと感じました。 浦坂 先生はずっと議論を聞かれていて、どんな印象でしたか? 千田 二個一案では大学院のない産関はなくなってしまうと痛感しました。院がないなら福祉と一緒になれということだったので。けれども文学部の改組転換を促す二つの条件が整います。大学当局が新学部=京田辺という縛りを外すという方向性を事実上認めること、そして教員数を増やすということです。同志社の教員は学生数に比べて少なかったので、八田学長の時に教員枠を100人増やすという策が出て、その中で文学部社会学科に教員を配分する余地が出てきたんです。その結果、この絶好のチャンスを逃しては文学部の改組はできないということになりました。 石田 都心部に大学がつくれないという文科省の大学学部設置基準が改正されたのですね。 千田 それを大学当局は京田辺校地問題に適用したわけです。 浦坂 そういう紆余曲折があって2005年の社会学部設立へと向かうのですね。

2003年に前期課程、2005年に後期課程 SANKAN悲願の大学院が実現

千田教授
千田 2000年前後に学部改組の問題とは別に、大学院設立の議論が活発化します。石田先生にイギリスの、浦坂先生にアメリカのIndustrial Relations(以下、IR)の大学について教わり、大学院をつくる上で理念的な確信を得ることができました。それで石田・浦坂・千田でプロジェクトチームをつくって具体的に進めていくことになります。 浦坂 私は着任してまだ何も分かっていない時で、石田先生や千田先生が大学院をつくらないといけないと折に触れておっしゃっていたのを聞いていました。それでミネソタ大学、トロント大学、ペンシルバニア州立大学、ミシガン大学などのIR学部の理念や設立趣旨を調べました。その後、「こんな感じで書いたらいいんだけど」と、新聞学専攻の後期課程の申請書類を石田先生からいただきました。こういう下書きは一番下の私がやるんだろうなと思って。 石田 うれしい誤解だったな(笑)。 浦坂 私も認められたい一心でした(笑)。大学院設置計画の草稿ができたのが99年5月。そこからバージョンアップしていきました。 石田 第3版までありましたかね。 浦坂 アメリカの例を参考にと思ったのですが、いかんせん専攻のサイズが小さくて、7~8人の教員数で担当できる科目しかつくれない。そういう物理的な限界があって、まずは身の丈にあった、属人的な制約を意識しながらカリキュラムを作成するのに最初は苦労しました。 千田 私自身は修士課程を2003年4月に立ち上げようと腹を固めていました。そこから逆算して作業を進めたけれども、課題は山ほどあって、学内合意を得るための会合を繰り返し、文科省との協議も同様に繰り返しました。産関の大学院教育の理念と趣旨をどこまで展開できるか、それにどこまで確信を持てるか。馬力で押していくみたいな部分がないわけじゃなかったですね。 浦坂 申請書類にチャート図が必要で、それが難しかったんですよね。そういう形式が整ってないと文科省は認めてくれないと言われて。石田先生に何度も見ていただいて、文章も直していただきました。非常勤の先生も確定させないと申請できなかったですよね。必死になって間に合わせました。 千田 大学院がなかったのは産関だけでしたからね。 浦坂 大学でははみだしっ子でしたね。大学院をつくるのは産関の悲願ともいえました。 石田 大学側もほっとしたと思いますよ。 浦坂 当時の文学部事務室とか大学の各部局が尽力してくださいましたね。 千田 文科省もぜひにという印象でした。 浦坂 だからそんなに大きな壁もなく、2003年に院がスタートできたのでしょうね。 石田 千田先生のお人柄もありました。分からんことがあったら皆で話し合いながらやろうという、ああいうリードの仕方が良かったし、そこに浦坂先生が新人で来てくれて、3人でああだこうだとやっているうちに形ができて、これでいこうみたいな。それまでは会議ばかりで作業になっていかなかった。 千田 そうやって後期課程も2005年に設置できました。

SANKANは専攻から学科へ 文学部から社会学部へ

浦坂教授
浦坂 2005年に社会学部も誕生します。私は社会学部になって良かったというより、むしろ専攻から学科になって、学科の独立性がより強まったような気もします。それまでは「専攻」という緩い縛りだったので、社会学も福祉もメディアも横のつながりが割とありました。 石田 以前は弘風館にいて、あの中に研究室、事務室があって、お昼を食べる人もいれば、ちょっと話をするとかね。組織のことよりそういう物理的な環境が大きいと思います。 浦坂 今はそういうたまり場がないですね。学部で足並みをそろえて何かするというのがやりにくくなった気がします。 千田 私は社会学部になって5年ほどで退職したんですが、良かったなと思うことがいくつかありました。一つは入試について学部単位で議論するので、学生諸君に直接向き合う場面が出てくること。それによって課題がはっきりしてきたんじゃないかという気がします。 石田 明らかに変わったのは、メディア学科と社会学科の偏差値が上がったこと。これは学部効果だと思いますね。文学部の中の社会学科新聞学専攻の時代はそこまで突出していなかった。IT革命の影響もあると思います。社会学科は社会学部プロパーの学科ということで、偏差値が上がったのでしょう。 浦坂 社会学部になって特徴が際立ったということですね。産関はどうでしょう。 石田 健闘してるんじゃないでしょうか。千田先生、頑張ってましたね、営業本部長として(笑)。 千田 関西の有力進学校の受験生に直接挨拶に行こうと考えて、全部で60数校を訪問しました。教員の3分の1は複数校に行っていますね。この学校訪問は、関西の受験界にある程度の影響を与えたと思います。それで社会学部の偏差値も高くなった。ただ同志社までがそこまでやるのかと言われて、やや同志社の株を落としめた面がないわけではないけれど(笑)。 冨田 文学部から社会学部へという話ですが、私は2005年に他大学の経済学部からこちらに来て、大きなカルチャーショックを受けました。今でも覚えているのは、労働市場論で学生にレポートを書かせた時のことです。経済学では人間の行動をかなり単純化して教えます。ところが、「人間はそんな単純なものじゃない、一人ひとり違うのだからそんな議論はおかしい」と書いてきた学生が多かったのです。文学部の学生と経済学部の学生では考え方が全然違うことに驚きました。 浦坂 その頃は文学部の産業関係学専攻で入ってきた子たちですから、気質的にそういうところがあったのかもしれませんね。

SANKANの教育はどうあるべきか 真に学生を育むゼミとは

浦坂 社会学部になったのをきっかけに新しく始めたことがいくつかありますね。卒論の口頭試問が始まったのが2009年でした。もう一つは、ゼミの発表会である「学生研究報告会」。2004年からですね。 石田 これは私みたいな人間には非常にプレッシャーなんです。ゼミでは自分の研究の延長で話すべきというトラディショナルな態度で運営していたら学生間のギャップが広がってきました。関心を示してグングンついて来る子が比率的に減ってきています。そうなるとゼミにまとまりがなくなってくる。私の唯我独尊的な授業が吸収されてないことが学生のプレゼンテーションや卒論で露呈してしまう。 浦坂 学生研究報告会での報告内容とか、先生は干渉されますか? 石田 そこそこのレベルであれば干渉しません。これは何とかしないとという時はてこ入れします。学問というのは、みんなの前で発表する喜びがモチベーションになります。自分がやってきたことをみんなの前で発表して評価を受けて喜び悲しむという経験はあった方がいいと思いますね。 浦坂 学生はやりがいを持って取り組んでいますでしょうか。学生研究報告会や卒論の口頭試問の効果のほどはどうでしょう。 冨田 私のゼミでは、秋学期になると全員で学生研究報告会の準備を始めます。みんなで発表の準備をしながら学生同士が仲良くなっていきます。 千田 私は、学生が書いた卒論を冊子にして渡すということを早い時期からやっていましたね。 浦坂 先生のゼミで卒論集をつくられていたということですか。 千田 そう。費用を何とか捻出してね。配ると喜ばれました。せっかくここまでの冊子にするのだからと、寺井先生が発表会をやろうと提案されて、それに私は飛びついたんです。 浦坂 私はインターンシップの授業を持っていて、毎年5月に他学部の学生に面接するんですね。話を聞くと、ゼミを頑張っている子が多いんです。経済学部とか商学部では、すごくゼミ活動を重視して、対外的なインターゼミも熱心にされている先生が何人かおられます。そういうゼミの学生は毎日のように勉強していて、すごくやりがいを感じているようです。そこまでゼミに重きを置いている子が産関にいるのかなと思いますね。 冨田 経済学部のように学生数が多いと、大学院を目指すなどよく勉強する学生が集まるゼミが自然とできてきます。そうしたゼミでは、先生も学生を鍛えますし、学生も自主的によく勉強します。私たちの学科は学生数80人ほどですので、大学院を目指す学生がなかなかいませんし、よく勉強する学生が集まるという評判のゼミもないような気がします。 浦坂 ただ、「産関賞」とか「卒論賞」を狙っている子もいます。特に優秀な学生の間ではちょっと意識される存在にはなってきています。そういう賞で勉強を頑張った人が評価されるのはいいことだと思いますね。 石田 私はゼミで勉強してきたプロセスのアウトプットが学生研究報告会ということにすればいいと思う。 浦坂 発表ではウケを狙いたいという欲がどうしても出てきますね。どの発表が良かったか投票する時の採点項目に「エンターテインメント性」とか入っているので、どうしても……。 石田 あまりゲーム化するのも良くないし、そこは葛藤しつつ求めていくしかないですね。教員としては勉強してきたことを淡々とやれということです。

これからのSANKANはどうあるべきか 「産業関係学」の核心とは―

冨田教授
浦坂 この先、産関はどうあるべきか、どんな展望を考えておられるでしょうか。 冨田 私は、産業関係学がコアになり、その周辺に労働経済学、労働法、労務管理論などがあるのか、それとも、学際的というかコアがなくてバラバラなのか、そこが重要だと思います。今は石田先生がいらして産業関係学のコアらしきものがあるのですが、石田先生が退職されたらコアがなくなるかもしれません。 石田 そこはいつも議論の論点になるところで、産業関係学科のままでいいのか他の学科名がいいのかということと関係してきます。私自身は「雇用関係」がコアだと思うんです。いくらAIとか出てきても社会の中に雇用関係はあり続ける。そこはやっぱり軸になるだろうと。 千田 労働科学論の場合、戦後の労使交渉の場面で「労使の皆さん、こんな事実がありますので、このエビデンスをもって、ぜひもう一度交渉し直してください」といった提案をするための学問だということで、私自身もその流れを引き継ごうと考えてきました。だからそれに近い説明をされる時は納得するんですが、そうでないとやや辛いと感じます。難しい問題だけれど大事なところですね。人が変われば変わる産業関係学というのは恐ろしく幼い学問だと思う一方で、変わるのはしょうがないという気もします。 浦坂 アメリカのIR学部なり大学院なりの大きな体制と比べれば、本学科はカバーできる範囲が限られています。本学科ぐらいのサイズに本当に必要な科目ってどういうものなんだろうかとか、そこは考え直した方がいいのかもしれませんね。 石田 その場合、IRと経済学と法学、そして組織論は不可欠だと思います。ここからまた延々と議論しなきゃいけないですが。 浦坂 産業関係学という学科名をやめた方がいいと、私は真剣に思っていたことがあります。分かりにくいですからね。もっと学生が関心を持って、これは学ぶべきだと確信を持ってやれるよう、この学問の重要性を高校生に理解してもらう努力を、私たちはしないといけないと思うんです。

50周年の節目を迎えて 今後のSANKANへの期待と抱負

千田 産業関係学を学ぶ学生というのは、卒業して5年、10年、15年すると、「産業関係学を勉強してやっぱり良かった」と年賀状に書いてくるんですね。そういう気づきをもっと早い段階で与えられる教育をしていただきたいなと思います。もう一つは、何か分からないことを一生懸命研究している先生方のそばで一生懸命話を聞いたというような経験が彼らの肥やしになっていくと思っています。「研究を演出する」というか、分からないことを分かろうとするのが研究なんだということをきっちりと学生に示していただきたいですね。 石田 大賛成ですね。産関も創立50周年を過ぎれば伝統の学問だという自信を持つべきです。雇用関係がない社会は考えられません。同志社の産関は雇用関係について確かな研究をずっとやっていて、いい知見があそこにあるよねと言われるようになればうれしいですね。そのために私も努力して、自分が獲得したものは後輩に譲って、より良いものにしていってほしいと思います。 冨田 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の設立者であり、『産業民主制』の著者でもあるウェッブ夫妻の言葉に、「効率的な経営と社会正義は両立する」というのがあります。今風に言えば、「労働者が公正に扱われていると信じて初めて、好業績の職場が実現する」ということでしょうか。こうした視点を持って研究するのが、経済学でもない経営学でもない、産業関係学です。こうした視点を学生と共有していきたいと思います。 浦坂 私は自分自身が産業関係学をきちんと理解できているか、はなはだ心許ないのですが、働くことが人生の中で大きなウェイトを占めているのは確かだと思っています。だから「“働く”を学ぼう」という産関のキャッチフレーズを創り出したんですね。"働く"を丸ごと学ぶ学問って他にはないと思います。それだけに産関の存在感が失われることのないように引き継いでいかなければならないという責任感はすごく感じています。これからは学科としてもっと発信力を高めて、世の中にも知ってもらう必要があります。それは教員である私たちの役割ですが、卒業生を通じて知ってもらうことも重要です。「いい仕事をするけれど、なるほどそういう学び方をしてきたんですか」と感心されるような人材を輩出することに尽きるんじゃないでしょうか。地道に、しっかりと、これからも教育研究を積み重ねていって、なんとか長生きして産関100周年を見届けたいと(笑)。 石田 浦坂先生のご年齢なら可能ですね(笑)。 千田 50周年まで産関を守ってきたように、この先100周年まで守り続けていただきたいですね。 冨田 その頃、産関はどうなっているのでしょうか。 浦坂 社会情勢も本当に変わってると思います。でも石田先生がおっしゃったように、雇用関係、そして“働く”ことが皆無になるということは絶対にないし、そこにさまざまな問題が必ず出てくると思います。人々がより良く働いていくために、私たち産関にできることはまだまだあるんじゃないでしょうか。 石田 はい、見事な締めくくりができましたね(笑)。 浦坂 本日はありがとうございました。
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